第三章 小さな胸の大きな鼓動は夢の始まり
初春の日曜日、少し暖かさの感じられる本当によく晴れた日となった。その日のジュニア・カート・スクールに参加したのは、3人の小学生であった。まだ新芽の出ぬサーキットの芝を背に、不安と期待を小さな胸に抱き親に連れられた3人の輝きは、正に春爛漫の入学式のようでもあった。
この日は、ステップ1でレーシングカートの基礎座学から、実際の運転操作までであった。本人はかなり乗り足りなかったようであったが、「慌てない、慌てない、一休み」などと一休さんのようなことを言って息子をなだめたが、ジェネレーションギャップから完全に滑り、息子からは完璧に無視された。家に帰ってから息子は、腹ばいになりスクールで貰った冊子を何度も繰返し眺めていた。
約1〜1月半ごとに、ステップ2,3と実施され、最後は模擬レースが開催された。その時は、バカ親の代表みたいに「俺の息子は上手い、もしかしたらF−1に行けるかも!」とまで思ったが、今考えると遊園地に毛の生えた程度であった。しかしながら、このスクール受講は後の息子の練習に良い影響を与える貴重なものであった。
スクールは無事終了したが、その終了が新たな始まりで、息子の気持ちは完全に「行け行けドンドン」状態であり、いつから自分が公式戦に出場するかまで、思いが沸騰していた。その時、恐れていた言葉がついに息子から発せられた。「カートいつ買うの?」と、窓辺の風鈴のようにも、渓谷の清らかな流れのようにも、爽やかで軽い当然のようなトーンであった。1年近く前から考えていたこの言葉の回答は、今の今まで決めていなかったのだ。遊び相手のおねだりならかわす術もあるが、相手は我息子であり安易なことは言えない。夏の午後、澄みきった何処までも続く青い空が、素直な返事を選択させた。「今はお金が無いんだ、お金が貯まったら必ず買おう」と。息子には、親の素直な苦しさが伝わったのか、「うん、わかった」と一言、本当は自分のカートが欲しくて欲しくてしょうがない気持ちを抑えているのが、目じりと口元から取って見えた。
その夜、妻が「カート買えるまで乗れないのは、チョットかわいそうね、これからステップ3だけ毎回受講する?」と、珍しく斬新なアイデアを出してきた。しかし、これは運転免許証を取得した若者が、車に乗りたいが買えないと言って自動車学校の路上実習のみを繰り返すようなもので、「そんな事はないやろう〜 チッチッキチィ〜」と。
普通、運転免許証を取得した若者が、「車を運転したいけど買えない」場合どうするであろう。「誰かに借りる?そうだこれだ!」と、私はごく普通の考えが浮かんだ。「明日、スクールを受講したサーキットに相談してみよう」と言った。ふと妻の顔を見るとジェイソンばりの顔面白パックに、「夏の夜の悪夢」という言葉を思い出した。
サーキットに相談してみると、以外にすんなり息子に最適なカデットクラスのレーシングカートを貸してもらえるようになった。言ってみるものだ、サーキットの人は本当に優しい。なお、今ではこのクラスのカートは正式に貸出しているようだ。もうスクール生ではないのだから、せめてヘルメット、グローブ、そして安全のためにネックサポートとプロテクターを買うことにした。カートを借りること、そして幾つかの道具を買うことを息子に話した。今回ばかりは想像通りの喜びようであり、あまりの嬉しさに意味も無く家の中を歩き回っていたが、柱の角に足の小指をぶっつけて、泣きながら笑っていた。
そこにあるのは知っていたが、どんな人が経営しているのかわからない、そんな縁のないカートショップへと、息子のために勇気を振絞り恐る恐る入って行った。そこには、若くてハンサムな好青年が居り、明るく「こんにちは」と声を掛けてくれたので少し緊張が和らぎ、今までの息子の経緯とヘルメット等を購入したい旨を話すことができた。その青年は、明るく熱心に私の話を聞いてくれた。意外や意外、カートショップは商業主義の小売店かと思っていたが、そうではなくカートショップは、モータースポーツ、レーシングカートをこよなく愛する「レーシング・チーム」であった。これが、カートショップとの初めての出会いであり、何だかすごく心地よい雰囲気を感じた。これ以降、用も無いのにショップに入り浸っているのは、言うまでもないことだ。
ヘルメットなどを買って帰った日、息子は楽しげにその全てを装着し、GTフォースのステアリングを握りしめ、フェラーリを走らせていた。家の中でテレビゲームをするのに、ご丁寧にシールドまで閉めてだ。当然その内側がくもり、フェラーリはデグナーの二つ目であえなくクラッシュしていた。
いよいよ初めての個人練習の日、我々家族三人はそのサーキットのピットに立っていた。他に練習に来ていた大人や同じような小学生と比べると、息子はヘルメット、グローブ、あげくの果てにネックサポート、プロテクターまで装着しているのに、服装はジーパンに長袖のシャツと履き古したズックという、ちょっとスポーツ走行としてはみすぼらしい格好であった。しかし、今の息子にとっては最高に輝く自分であったに違いなく、小さな胸の大きな鼓動を抑えながらアクセルを踏込み、何怯むことなく右手を高らかに天に突き上げ、その夢へとコースインした。
蜩の泣き声が、エンジンの音とオイルの香りにかき消された夏の終りであった。
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